今回は、まだ筑波サーキットができたばかりの頃の思い出を書いておこうと思う。
その頃、俺はモトクロスチームの仲間と一緒にロードレースに参加してみようという事になり富士スピードウェイで練習を始めた。トラックドライバーをしているクラブ員が、皆のマシンをトラックに載せて1~2か月に一度くらいの間隔で練習に行っていた。ちょうとその頃、筑波サーキットがオープンした。当時は鈴鹿サーキットと富士スピードウエイの全長6㎞の国際規模のサーキットしか知らなかった俺たちは、全長2㎞のサーキットと聞いて、東京からの距離の近さと走行料金の安さに「マシンセッティングに使えるなぁ」位にしか考えていなかった。現在の筑波サーキットの繁栄など予測も出来なかった。
出来たばかりの筑波サーキットには今のような秩序ある状態からは程遠かった。俺たちがバイクを整備するすぐ後の駐車スペースで四輪のレーサー達が暖機運転やスピンターンなどを繰り返していた。キーと鳴るブレーキ音に驚き、後ろも見ずにピットに逃げ隠れたことが何度もあった。現にピットの辺りでは車が整備中のバイクに乗り上げたり、四輪同士で激突する事故も数多くあった。駐車場はタイヤのブラックマークが無数に引かれた無法地帯だった。レーサーと言うよりヤンキーな走り屋集団のような連中がサーキットを支配していた。
いまは東京から筑波サーキットまでは高速道路を使えるので、さほど遠い距離とは感じない。しかし当時はちょっとした小旅行だった。練馬から浦和市役所の横を通り、見沼の池を左に見て野田方面に下道で行く。道中、まだ小雨の降る暗い夜明け前にその沼の横のバス停に傘をさしてバスを待っている10人位のサラリーマンを見た時に「こんなに朝早くから30年も40年も会社へ通勤を続けるのか・・・・」と、自分が本当に社会人として務まるのかどうか不安になった。
野田の町に入ると江戸時代から続いている醤油工場の横を通った。背丈の倍以上もある醤油樽を見ながら、小学校の社会科の教科書に載っていた墨絵と同じ景色だと感動した。それからしばらくして利根川に架かる大きな橋を渡る。夏の暑い日、練習帰りに橋を渡らず側道から利根川の河川敷に降りてクラブ員皆でジーパンのまま川に飛び込んだ楽しい思い出もある。利根川を渡ってしばらく行くとY字路があり左にカーブするとすぐにガソリンスタンドがあり、何度かそこでガソリンを入れた。
このY字路の頂点に「交通安全」のタスキを付けた等身大の警察官の人形が置いてあった。この警察官人形を目印に左にカーブするのだが、ある日その人形の首から何か看板が垂れ下がっていた。よく見ると「土浦ストリップ劇場・特出し白黒ショー」と書いてある。これにはクラブ員みんなで爆笑。「あのストリップ小屋、警察からお灸すえられるよなぁ」なんて話していたが、俺はあの看板を超えるインパクトのあるものに未だかつてお目にかかっていない。筑波に行く道中は今の倍はかかったように思う。
俺はCB350に乗っていて、ホンダHRCの前進RSCで部品を購入して自分でレーサーを作ってサーキットを走っていた。ヨシムラに行く前の頃だ。筑波で練習し始めてから2~3回目位だっただろうか。レースと言えば2サイクル車両が当たり前の頃。4サイクルレーサーに乗っているのは俺一人だろうと思っていたら、第一ヘアピン手前で後ろから4サイクルの爆音が聞こえてきた。ヘアピンを超えてダンロップへ入る右コーナー進入時チラッと後ろを見ると、なんとその音の主はフォーミュラーカーのF2000だ。もしあの時、生意気にもインを閉めてやろうなどと考えていたら俺はダンロップ下のグラベルへ弾き飛ばされていただろう。
筑波サーキットにいたフォーミュラカーは1台のみ。貸し切りにするわけにもいかず、四輪と二輪とどっちと一緒に走らせるかサーキットの運営側は悩んだのだろう。「今日は二輪の枠が空いてそうなのでフォーミュラカーはそこで走らせちゃおう」なんて考えたのだろう。俺たちにとっては「だったら先に言ってよ」てな感じだ。フォーミュラで走っていたのは三菱自動車の益子修と言う社員ドライバーだった。昨今の経済ニュースで日産ゴーン会長がマスコミに取り上げられている。グループ会社である三菱自動車社長の益子修社長が良く出てくるのだが、同じ人なのだろうか。
その頃サーキットには色々なイベントがあった。サーキットの企画なのか雑誌社の催したものかはわからないが、ロードとモトクロスのA級ライダーが筑波を走ったらどちらが早いかなんてイベントがあった。タイムトライアルだけど当時は圧倒的にモトクロスに人気があり競技人口も多かった為かスズキの矢島金次郎選手、ヤマハの鈴木忠雄選手などが圧勝していた。俺がモトクロスレースに出場していたころは第2次モトクロスブームと呼ばれていた。MFJとMCFAJの全日本選手権の日程が重なったことがあったが、両方ともに800台くらいの出場者があった。ノービス125は最激戦で予選15組があったほどだ。30台スタートして2台しか決勝に残れない。ギヤ抜け一回で予選敗退だ。テレビ中継があったほどにモトクロスに人気が集まっていた。今ではロードレースライダーに逆転しているのだろう。
そのほかにも面白い企画があった。10トントラックを筑波で走らせて、ベテラントラックドライバーと人気F2レーサーはどちらが早いのかなんていうのもやっていた。東スポのプロレス記事のように「ワッパ握らせたらオイラに敵う者はいねえぜ」なんて吠えて盛り上げていたのは覚えているがどちらが早かったかは記憶にない。
バイク雑誌の付録にはソノシートが入っていた。「Kawasaki契約ライダー和田将宏H2Rで攻める」なんていうのがあって、2ストローク500cc3気筒の甲高いエンジン音と風の音が流れる中「第2ヘヤピンを和田将宏立ち上がりました。2速、3速、4速・・・・・・」なんてナレーションが流れる。この頃のレーサーには消音機は付いていない。ソノシートなんて若い人にはわからないかもしれない。CDの前にレコードがあったのは知っているだろうが、レコードは黒くてかたい樹脂で出来ているのだが、ソノシートはクニャクニャのビニールで出来ていた。
富士スピードウェイで練習を始めた俺たちクラブだが、ロードレースの初出場は筑波サーキットだった。今も存続していれば面白い企画だと思うのだが、当時のメインレースはセニア250ccクラスであった。今で言う国際A級レースだ。参加するA級ライダーの他にノービスやジュニアのライダー達もこのクラスにチャレンジ出来る予選があり、上位2名に入って最低基準タイムをクリアすればA級クラスで走れるチャレンジシステムもあった。
クラブ員の一人が予選を通ってそのセニアクラスに出場した。しかも、ノービスクラスでA級を大勢従えて、ヤマハの市販レーサーTD3でトップを激走していた。徐々に差を詰めてくるA級ライダー達に焦りが生まれたのだろう。ダンロップ下の右コーナーで彼はとうとう大転倒を起こしてレースを終えてしまった。俺は次のクラスのスタート準備のためコース入り口に並んでいる最中の出来事だった。初レースのスタートラインに並んでいる俺の横を救急車に乗せられた彼は病院に運ばれていった。
こんな光景に動揺した中で俺は筑波での初ロードレースのスタートをきった。第1コーナー、第1ヘアピンを過ぎて見えてきたのは、ダンロップアーチの左側に立てかけられフロントが吹き飛んで泥を被った惨めなTD3の姿だ。「あいつは生きているのだろうか…」俺は完全に戦闘意欲を失っていた。「今日は初レースだし無理をしないでレースを終えよう」と完全な慣らし運転モードに入っていた。
ところが何周かを走った頃、第2ヘアピンに入ろうとしていた俺のアウトからカウルがガツンと音がするほど強くぶつけて抜いていった奴がいた。眠っていた俺にスイッチが入った。「この野郎!」そいつはすぐに抜き返してやり、そのままテンションが上がったまま随分抜き返して12周を走り終えた頃には5位入賞を勝ち取った。これが俺の初筑波ロードレースだった。
転倒した仲間は鎖骨が折れたくらいで大怪我にはならなかった。後から付き添いで救急車に乗ったクラブ員の話によると、救急車はかなり古い中古車だったそうだ。本来なら自動でサイレンがウゥゥゥ~ウゥゥゥ~ウゥゥゥ~となるはずのところセンサーが壊れていた。救急車の運転手から「どこまでもサイレンが高く鳴り続けるので、ソプラノ近くまで高音なったらこのスイッチをOFFにしてください。10秒位したらONにしてください」と頼まれたそうだ。クラブ員の介護ではなくサイレンのスイッチ係として病院まで行ったと嘆いていた。
あれから半世紀近くが過ぎようとしている。当時見たバイク雑誌に、ヨーロッパやアメリカでは40歳50歳になってもロードレースに参加している写真があった。「本当だろうか?本当ならばとても嬉しいな。日本では考えられないね」なんてクラブ員と話していたことを思い出す。当時の日本では、30歳になってもバイクレースなんかやって・・・なんていう世間の目が厳しかった。しかし今では日本にもレースを楽しむ大人が大勢いる。これはバイク文化が定着してきている証しなのだろうか。同時に若者のバイク離れもとても心配するところだ。