バイクの後ろに女の子を乗せて

中学2年生だった俺は、バイクの後ろに女の子を乗せて湘南海岸を飛ばしてみたいという、まさに青春ドラマの1シーンを夢見ていた。ある日、衝動的に動かないHONDA C110スポーツカブを買ってしまったが、知識も経験もない中学生にとって、不動車のレストアというハードルは想像以上に高かった。しかしそのおかげで沢山の友だちや先輩たちとつながり、バイクをいじる楽しさを知る事になった。その楽しみは進学や就職を決めるところまでとなる。 半世紀以上もの間バイクと関わり続ける人生を送ることになったきっかけは、そんな単純な憧れだった。

社会人になって、「楽しそう」と思って乗ったバイクはたくさんある。国産車はもちろん、HARLEY DAVIDSON、DUCATI、旧車はBSA、TRIUMPH、Nortonまでも所有してきた。そんな俺に、どのバイクが一番楽しかったかと問う人は何人もいたが、どのバイクにも違った楽しさがあった。答えを出すのは難しい。でも、もし誰かが一番心に残るバイクの思い出は何かと聞いてくれたら、迷わず二つの事を思い出す。

ひとつは、免許取りたてのライダーが皆通ったことのある「初ツーリング」の思い出だ。免許を取った16歳の夏、同じような免許取り立ての5人で練馬区から甲州街道を通って相模湖までツーリングをした。この時が初めての自分で公道を運転する遠乗りだ。当時の景色は現在とは大違いであったことは、若い人には強調しておかなければならない。半世紀以上前のことで1964年東京オリンピックの次の年だった。 この国にモータリゼーションが起きる直前である。 ドライブなど経験したことが無かった俺は、バイクを走らせながら目の前に広がる景色の全てが新鮮に感じ興奮したのを覚えている。

みんなのバイクは、2ストロークの50cc。前傾姿勢でも最高速はせめて50~60㎞/hといったところだろう。直線で離したり離されたり、カーブで競争したりしながら走る。 タンクに伏せた俺の顔には、こみあげてくる笑いが。そして振り向けば、すぐ後ろに同じように笑っている仲間がいる。 この時の誰にとっても、青春時代のモヤモヤやイライラを全て忘れさせてくれた時間だった。ガソリン代と免許証以外は持って出ていない。お寺か神社で井戸水を飲ませてもらう。多摩川にかかる日野橋を渡ったところにうどん屋があった。社会人になって出世したら、ツーリング途中にこんな店で食事をしたいなんて言っていた。先日、久しぶりに日野橋を渡ったら、そのうどん屋は今も営業していた。

もうひとつは、バイクを操る楽しさを発見した思い出だ。練馬区の家の裏から埼玉寄りはほぼ全て砂利道で、黙っていてもオフロード走行は上手になった。その頃ぼちぼち出来始めた住宅造成地で、よく仲間とモトクロスの真似事もしていた。そんな中、既にモトクロスレースに参加している人が荒川の河川敷に練習に行こうと皆を誘ってくれた。笹目橋から戸田橋に下った当たりの河川敷だったと思う。夏の終わりで丈が2m以上のススキが生い茂っていた。その生い茂るススキの中を先頭がバイクで突っ込んでいく。その後を10台ほどのバイクが続く。そのうちに全長300mほどの瓢箪形の練習コースが出来上がった。何周も何周も競争してクルクル回る。滑って転んでも青いススキの絨毯の上を滑っているようで痛くない。みんなケラケラ笑いながら転んでいる。
バイク雑誌で「逆ハン」と言うコーナリングのテクニックがあると書いてあった。今で言う「カウンター」だ。左に曲がるのに右にハンドルを切る。右に回るのに左にハンドルを切る。こんな馬鹿な事が出来る訳がないとそれまでは思っていた。しかし、この瓢箪コースで自分は逆ハンでコーナーを回っていた。「上手くなりたい」という欲望が、この日、俺の頭を支配した。家に帰って布団の中で目をつぶっていても、青いススキの上を気持ちよくスライドしながらコーナリングする自分の姿が瞼に映る。この楽しい出来事が、バイクにどっぷりはまる切っ掛けになったのは間違いないだろう。

どのライダーにも、それぞれ「バイクに乗る喜び」というものを感じた経験を持っているのだと思う。ある同業者の会合で初めてのツーリングの話をしていたら、ある人からこんな微笑ましい話を聞いた。

その人は俺よりも少し若いようだった。初めて原付免許を取り、遠乗りの計画を立てようと地図を見ていたら八ヶ岳という地名に目がとまったそうだ。当時、人気テレビドラマで田宮二朗主演の「高原へいらっしゃい」が人気だった。その舞台が山梨県八ヶ岳のホテルだった。彼は初めてのバイク、スズキRG50で八ヶ岳にあるそのホテルを目指した。日曜日の朝早く出発し、目的地を探し当て、満足して国道20号線で帰路についた。しかし突然、道中で一番長い笹子トンネルの中で彼のRG50のエンジンが止まってしまった。


初めてのツーリングで、しかも真っ暗なトンネルの中で、彼は先に進むのが良いのか、今来た道を戻るのか迷い途方にくれていた。そんな時、通り過ぎたKAWASAKI W1がトンネル内でUターンして戻ってきてくれた。

「どうしたの?故障か?」
「はい、動かなくなって困っています。」
W1の車載工具を取り出してRG50のプラグを外し、「プラグがカブっているよ。今回は応急処置だから家に帰ったら整備してな。」とエンジンをかけてくれた。

そのままW1は走りさっていった。助けてもらった彼は、気が動転していたので、お礼を言わないまま別れてしまった。

その後、彼はどうしてもW1のライダーにお礼が言いたくて、当時2誌しか出版されていなかった業界誌、モーターサイクリスト誌とオートバイ誌、に笹子トンネルで世話になった者です。お礼が言いたいとメッセージを載せたそうだが、返事はなかった。数年後、やはりどうしても気になっていた彼は、再度「笹子トンネルでお世話になったRG50の初心者ライダーです。あれからロードレースに出場するようになって今は国際A級になって活躍しています。是非お礼が言いたいのでご連絡ください。」とメッセージをした。恩人からの連絡はなかったが、彼はいつも移動する時にはバイクにも車にも工具を積んでいる。今までに4人ほど助けた。彼ができる恩返しの形だそうだ。

今までいろんなバイクに乗ってきた。50ccから1500ccまで、スポーツバイク、オフロード、アメリカンとスタイルも様々。それぞれに思い出はあるが、自分にとって本当に楽しかったバイクはスペックとは離れたところで出会ったものばかりだ。振り返れば、バイクは思い出を作る「道具」であるのだと思う。いつの時代も大切にしたいのは、ライダーがバイクと作る「思い出」であってほしい。

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