HONDA CB160とバイク便の思い出

待ちに待った16歳の誕生日に、自動二輪免許証を取得した。当時まだビッグバイクの存在は薄く、人気車種と言えばホンダCB72という250ccのスポーツバイクだった。俺にとっても憧れの車種だったが、高校生のバイト代で買えるような代物ではない。社会人にとってもバイクは高級品であったころ、クレジットや月賦も無く現金決済のみの時代だ。

なんとかCB72に乗れる方法が無いか考えているうちに、「バイク便社員募集」の広告が目にとまった。高校一年の夏休み直前、本来ならば中間テスト準備真最中のはずなのに、京浜急行の南馬場で下車して第一京浜国道沿いのバイク便会社に面接に行った。社員しか募集していないと電話では言われていたのだが、「面接だけでも」と強引に押しかけた。よほど人手不足だったのだろう。日当550円で雇ってもらえることになった。時給ではない。日当である。

住んでいた大泉学園から西武池袋線、山ノ手線、京浜急行と乗り継ぎ、バイク便会社からバイクに乗り換え、銀座4丁目にあった中国新聞東京支社(仕事場)まで毎日通った。今は取り壊されてしまった松坂屋デパートのすぐ裏に銀座では珍しい大衆食堂があって、昼飯はここが定番であった。昭和の学校給食に使われていたような黄色の樹脂の食器を使っていた。電車賃と昼飯代で計ったようにピッタリ550円。朝早くから家を出て飲み物1本飲めなかったのに、スポーツバイクに乗れた嬉しさでお金のことは全く気にならなかった。希望していたCB72には乗れず、バイトで乗れたのは故障車が出た時のスペアに置いてあったCB160だった。当時でも珍しい車種で、CB72をそのまま小さくしたようなバイクだった。それでも充分だった。

中国新聞は関東地方では販売されておらず、同社の東京支社は首相官邸と桜田門の警視庁の記事を本社に送っていた。毎日一回首相官邸と警視庁に行って、記事を取ってくるのが俺の仕事だった。

4年ほど前、小、中、高校を通じての友人が末期癌になり、最後のお別れに見舞いに行った時、俺が彼をバイクの後ろに乗せて首相官邸に行ったことを懐かしく話してくれた。「北島が俺をバイクの後ろに乗せて首相官邸に顔パスで入っていったんだ。腕章も身分証明書も見せずに、守衛に頭をちょっと下げただけでフリーパスだったよ…なんて自慢話をしたかったんだけど、だれも信用してくれなかったなぁ」と彼は言った。「だれか後に乗せて首相官邸に入ったことは覚えているけど、お前だったんだ…」痩せこけた彼と一緒に当時を思い出して笑った。

バイクに乗れるのは楽しかったが、中国新聞編集部に机まで用意してもらっても俺の仕事は昼に終わってしまう。緊急事態が無ければ、あとは退屈な時間を過ごさなくてはいけない。ある日、道を間違えて高速道路に入ってしまった。新橋の側道から首都高速道路にのって東京駅の近くまで行ける料金所の無い短い区間だ。それからというもの、この道が退屈な時間を吹っ飛ばしてくれる最高の道になった。新橋と東京駅の間を何度も往復した。気分はGPレーサー。一日50往復以上が日課になった。

途中、晴海通りをまたぐ数寄屋橋で、出来たばかりの新幹線と何度も並走した。高速道路で走る俺のバイクのほうが少し速いスピードだ。新幹線は東京駅で止まる寸前で、ゆっくりとブレーキング中だから当たり前だ。でも俺が「並走したら俺のほうが早いんだぜ」と友達に話せば、まるで時速250㎞以上で走ったように聞こえる。「良いなー…俺もそのくらいスピード出してみたいなぁ…」とみんな羨ましがっていた。

まだその道は残っている。

さらに余った時間は、編集部一階にあった本屋で読書。バイクや自動車雑誌だけではなく図書館の様に片っ端から読み漁った。オートスポーツ誌のHONDA F1初勝利の記事を見たのも、その本屋だった。初期のHONDA F1が中々勝利を上げられず、1500ccレギュレーション最終年最終レースのメキシコGPでリッチー・ギンサーがHONDAに初優勝をもたらした記事だ。11月のレースが、次の年の7月に雑誌の最新ニュースになっていた。

小中学校の社会科の授業で「我が国は安価で粗悪な工業製品を生産する」と教わり、一世帯当たりの電話保有率、自動車保有率からミルクや肉の消費量など、いかに世界の先進国から日本が遅れているかを棒グラフで見せられ、そのような教科書で育った我々世代は、HONDAやSONYの海外での躍進に勇気づけられた。このHONDA F1の勝利の記事を読んだ16歳の俺は、本当にうれしくて泣いてしまった。

今の日本でモータースポーツがいまいち盛り上がらないのは、こんな経験を持つ俺にとっては非常に悔しい。「暗い」と言われていた卓球も今や人気種目。俺が好きなラグビーも、やっと脚光を浴びるようになってきた。女子サッカーのワールドカップにしても、しかりである。

強くなれば、自然と人気はついてくるものだと言う人もいる。だが、モータースポーツを見てみると、昨年のル・マン24時間自動車レースは、ゴール3分前までトヨタがトップを快走。今年はトヨタの日本人レーサーがポールポジションを獲得した。インディー500では105年の歴史で日本人初の優勝だ。なのに、モータースポーツは依然として人気が出ない。どんなスポーツやイベントも、実際に生で見るものと映像で見るものでは、感動や迫力が格段に違ってくるのは分かる。特にモータースポーツは現場のスピードや音や興奮を映像では伝え難いだろう。分っていても長らくモータースポーツと携わってきた者としては、大変に残念だ。本格的なレースではなくとも、バイクや四輪で競い合うことは本当に楽しいものだ。
バイク便の仕事は9月の新学期になっても続けていた。学校に来なくなった俺を心配して、担任の先生が銀座まで俺を迎えにきた。授業中は皆騒いで本気でなんて勉強していない。そんなところで卒業証書をもらうより、早く社会人になってバイクの仕事で一人前になりたいなんて青いことを俺は言った。そんな俺に先生は、高校を卒業することの大切さを説いてくれた。渋々もどった学園生活だったが、今は亡き田中先生に感謝している。

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