真剣勝負のロードレースでも、笑ってしまうような出来事がたくさんあった。そんな出来事を書き出してみようと思う。
まずは、ロードレースのスタートであった出来事からにしよう。現在のスタート方法は、エンジンをかけたままシグナルが赤から緑に変わると同時にクラッチを繋いで一斉にスタートする「クラッチスタート」だ。しかし、1980年代までのオートバイのロードレースのスタートは、「押し掛けスタート」と呼ばれるものだった。ライダーがバイクの横に立ってギヤを1速に入れ、クラッチを握ってスタンバイする。緊迫した静寂の中、シグナルが緑に変わったと同時に満身の力でバイクを押し出す。レーシングブーツがサーキットの路面を蹴るサッサッサッというライダーにしか聞こえないような静かな音だけがする。5~6歩マシンを押して素早くシートに飛び乗ったと同時にクラッチを放す。ここで後輪に力が繋がってエンジンが始動する。後輪がスリップしないようにクラッチを放すと同時にバイクに飛び乗るが、この時シートに飛び乗るのは横乗り状態でシートはまたいでいない。出場車両33台のエンジンが一斉に爆音を上げる。エンジンがかかったと同時に左ステップに左足をのせてアクセルを開けながら加速し、右足を蹴り上げてバイクをまたぐ。前傾姿勢で2速、3速、4速とシフトアップしてアクセル全開で第一コーナーに向かっていく。
ライダーにとってスタートは一番緊張するときだ。静寂からいきなり爆音でエンジンが一斉に火を噴く。この頃のレーサーには消音機など付いていない。真っ暗なコンサート会場に、スポットライトが稲妻のように光り、ガーンと爆音の響くロックコンサートが始まったような状況を想像してほしい。そんな爆音の中では、グリップから伝わる振動、もしくはタコメーターの振れを見る以外にマシンのエンジンがかかったかどうかは分からない。ここで初心者は失敗する。1番最初に「バーン」とかかる「バ」の音を聞くと、緊張と焦りの中で自分のマシンが始動したと勘違いしてバイクに飛び乗ってしまうのだ。まだエンジンはかかっていないのだからスクリーンの中にもぐって前傾姿勢を取っても前に進んでいるのはライバル達だけだ。マシンは前には進まず横にゴロンと倒れるのだが、初心者ライダーはまだなぜ自分がアスファルトに転がっているのかが理解できていない。メインスタンドに座る観客たちもまた、この転がっている初心者には気づいていない。みんな第1コーナー目がけてスタートしたばかりのトップ集団の行方を興奮して見入っているからだ。
全車第1コーナーに消えて行き、観客は最終コーナーから誰が一番手で戻ってくるのかに興味が移る。その時やっとスタート地点にバイクが転がっているのに気づく。初心者ライダーはバイクを起こして先に行ってしまったみんなを追いかけようとするのだが、転倒したせいでプラグがカブってしまっている。必死に押し掛けを繰り返してもエンジンはかからない。それでも焦りと恥ずかしさで押し掛けを続ける。メインスタンドの観客から見えなくなるあたりまでやめられないのだ。酸欠でハァハァ言いながらようやくバイクをガードレールに立てかけ、応援に来てくれた仲間たちに何と言い訳しようかと考えながら自分が走っていたはずのレースを最後まで見る羽目になる。
次は素人メカニックの話をしよう。この頃のレーサーは、ほとんどが2サイクル車両でパワーバンドが狭く、少しでもエンジン回転を下げてしまうとカブってしまいコース上で止まってしまう。ロードレースには必ずスタート前にエンジンとタイヤを温めるために完熟走行がある。コースを1周走行してから予選順位の通りスタート位置に並ぶのだ。この完熟走行の時にはカブり難い熱価の低い純正プラグで走り、スタート地点にもどったところでレース用本番プラグに交換する。この短い時間の中で、熱くなったプラグを狭いカウルの間から交換するのはプロのメカニックにとっても難しい作業なのだが、アマチアライダーにつくメカニックは友達のクラブ員が行うことが多かった。
熱くなったカウルの中に手を入れて、エンジンやエキゾーストに触ってしまう。「アチチチチッ、アチチチチッ・・・」やけどしそうになってプラグを落とすこともよくあった。本来プラグ先端の火花ギャップは0.8mmほどのクリアランスなのだが、落としたプラグはギャップが潰れてしまっている。しかし焦っているのでそれに気づかないのがクラブ員の素人メカニックなのだ。そのままプラグ交換を行ってコースからピットに戻ってしまう。結果、全車一斉にスタートしていく中、1台だけエンジンがかからない。どこまでもどこまでも押し掛けを続けるが、潰れたリーチのプラグでは火花は飛ぶはずがない。競技委員から「トップ集団が戻ってくるからコースアウトしろ」と言われてエスケープゾーンに渋々退避させられる。押し掛けで酸欠になりそうに苦しい中、ライダーは罵る。「あの野郎!」始動しない原因はあの落としたプラグしかないのだ。
次はメカニックとして関わった時の話をしよう。俺はこのその頃、鈴鹿でメカニックの修業中だった。ホンダのホームである鈴鹿サーキットでも2サイクルマシンが闊歩していて、ホンダ車が一台も走れないサーキットになることが早々に予想されていた時代だった。最後の砦としてCB125をベースにした125ccクラスがかろうじて2サイクル勢と対等に戦えていた。本田技研も研究所、鈴鹿、浜松、狭山などの各製作所がCB125のパワーアップに協力し合っていた。俺の勤めているモリワキエンジニアリングにもシリンダーヘッドの燃焼効率の良い業者を決めるコンペがあり、俺の改良したシリンダーヘッドが見事に選ばれて後に百数十個のシリンダーヘッドのポート改良を請け負ったこともあった。この時代、ホンダにとって125ccクラスは絶対に死守しなければいけなかったクラスなのだ。これが無ければ、ホンダのホームで走るホンダ車が無くなってしまうことを意味していた。
そんな状況の中、本田製作所社員がノービス125ccクラスに出場した時の出来事だ。CB125はSOHS空冷単気筒のエンジンで、京浜製CR29φ(パイ)キャブレターを取り付けることが必須だった。しかし、こいつは26φキャブレターしか持っていない。予選を勝ち残って決勝を6番手で走行していた。超激戦クラスでこれだけでもすごいのだが、コントロールタワーから黒旗を出されてすぐにピットインしろとの命令が出た。本人にしてみれば「俺は26φ径ではなく29φ径のキャブレターを取り付ければもっと早いんだぞ」と鈴鹿サーキットに詰めかけた観客に知らせたかったのだろう。レース前の車検を終えてから左右カウルに26φと大きく書き込んでレースを走っていた。本来のゼッケン番号が89番でその前に26φと書いているから管制塔からは2689と四桁の番号に見える。どうなっているんだとピットインさせられたようだ。たった10週そこらのレースでピットインさせられらば、レースはその時点で終わったようなものだった。これには「勿体ないなぁ」と仲間からの同情の声は多かったのだが、次のレースでもやらかしてくれた。このレースでも上位集団を走行していたが、3週目でピットに飛び込んできたのだ。「4コーナーから始まるS字でいつもと違う挙動が出たのでチェーン調整をしてほしい」と言うのだ。この時ばかりはメカも仲間も呆れて「24時間耐久レースじゃあるまいし、10週レースでピットインするあいつはバカだ!」と冷たい視線を投げかけるだけだったが、今思い出すと笑える話だ。
他にも笑えるドジな話は沢山ある。ツーリングやモトクロスのことも、少しづつ書いていこうと思う。