赤いアロハとHonda CP77の思い出

バイクに興味を持ち始め、動かないバイクを手に入れたばかりの中学生だった頃、何もわからなかった俺にバイクの事をいろいろと教えてくれた先輩がいた。ある日、その先輩に個人売買でバイクを買うので一緒に付き合ってくれと頼まれた。ホンダから販売されていたCP77(CB72のボアアップバージョン)と言うバイクだ。当時の人気車種と言えば、ホンダはCB72、ヤマハはYDS3、スズキはT20、カワサキはA7だった。今でいうCBR1000RR、R-1、GSX1000R、ZX10などといったところだろう。

当時、一般のバイクライダーが手にできるのは250ccで、CP77のようにピストンのボアだけを大きく305ccにして販売されている車両は憧れではあったが、車検検査料金が二年に一度発生するために金銭的に余裕のある人たちが選ぶバイクであった。先輩は高校2年生だったと思う。その頃で最高機種だった車検付きのCP77を買うというのだ。13万円の大金をポケット入れた先輩と俺は、取引場所の後楽園球場へと向かった。

ここで昭和30年代後半の13万円がどのくらいの価値だったかということを補足しておこう。俺が住んでいた練馬区大泉学園で、当時社員が100名規模の会社は**製作所一社しか知らない。中学を卒業した新入社員の初任給が8千円くらいだったと聞いている。そんな時代の13万円である。サラリーマンの年収を超える大金を高校生がポケットにねじ込んで、知らない町の知らない人からバイクを買いに行くのは、中学生の俺にとってかなりスリルのある出来事だった。

俺よりずっと裕福な家庭に育った先輩は、足代わりに人気のトーハツランペットを所有し、モトクロスに行くときにはホンダC110、高校へはマツダキャロルの軽自動車で通学していた。14歳から取れる狩猟免許も持っていた。空気銃も、俺をはじめほとんどが14歳の腕力では標的を定めている間に重い銃身が下がってきてしまうような重くて長い空気銃だったのだが、先輩の銃はポンプ銃と言って、俺が持っている銃の半分くらいの長さで空気を充填するのも簡単な最新型だった。先輩の部屋には、憧れのオーディオスピーカーが壁一面に鎮座していた。とにかく若者の欲しいもの全てを先輩は持っていたように思う。

池袋から地下鉄丸の内線の後楽園駅で降り、後楽園遊園地と後楽園球場の間の路地を国鉄の水道橋駅の方へ歩いていく。後楽園球場の軒下のようなところには、ゲームセンターがあった。多分、ひさしの上は外野の観覧席だったのだろう。パンチングボールと言って鎖の下にバスケットボールのような革製のボールがついている。そのボールを思いっきりパンチすると、その衝撃が数字となって表示されるゲームだ。ほかにも何種類かゲームがあったようだが、待ち合わせ場所にいた赤いアロハシャツを着たCP77の売主は、そのパンチングボールを殴っていた。

初めて会う人の目印が何だったか、服装だったかは覚えていない。その人に我々の名前を名乗ると、すぐ先の水道橋駅の方へ我々を案内してタクシーを呼びとめた。当時の俺は、タクシーなんかに乗ることはめったになかった。初めて乗ったのは親戚の葬式の時である。これが生涯二度目に乗ったタクシーだった。もっとも中学生がタクシーに乗る機会など滅多にないころの話なのだ。初めて会った人と大金を持ってタクシーに乗り、知らない土地を移動するなんて、俺は拉致されてしまうのではと勝手に心配していた。

始めて通る都会の景色を、俺はタクシーの中で必死に覚えこもうとしていた。途中、山手線などの鉄道が下を通る石造りの高架橋をタクシーは進んだ。緊張しながら、この赤いアロハの男に金だけ取られてタクシーから蹴落とされるかもしれないなどと妄想していた。金を取られて、この男に逃げられても、アジトはしっかり覚え込んでやるぞと、高架橋の下を通る鉄道を必死に覚え込もうとしていたのだ。

俺たちを乗せたタクシーが着いた先は、不忍通りに面した都電の駅近くの商店だった。記憶をたどると千駄木あたりだったように思う。今は高い建物に囲まれた不忍通りだが、その頃の町並み全てが木造二階建てだった。少し前まで小さな商売を行っていたような佇まいだった。ガラスの引き戸を開けると、そこにCP77があった。まるで主人の帰りを待っていたかのように。

お金を渡すと、愛車を手放すオーナーは「最後にちょっとだけ乗っていいかな?」と先輩にきいた。快く承諾されると、アロハの男は都電の線路が敷かれた石畳の道路をCP77で走っていった。先輩は気にもしていない様子だが、俺はそのまま金だけ奪ってトン面されるのではないかと心配していた。ほんの2~300メートル位走ってUターンして帰ってきてくれた時には、ほっと胸をなでおろした。

それから時間の経った今から2~3年ほど前、台東区根岸方面へ故障車の引き取りにカーナビを頼りに進んでいると、俺はあの見覚えのある石橋を渡っていた。「ここだぁ~」と思わずつぶやくと同時に、赤いアロハの男の思い出がよみがえっていた。

ここで少し話はそれるが、CB72も、その兄貴分のCP77も二種類のエンジン機構でホンダから販売されていた。(この時、4サイクルエンジンのバイクを販売していたのはホンダだけだった。)180度クランクのType1と360度クランクのType2である。180度クランクのType1は二気筒の左右のピストンが上下180度に位置している。高回転でバランスよく回り、レース車両などはすべてこのタイプだ。しかし、360度クランクは、トルクがあって乗りやすく街乗りには適している。最高速度はCB72で高速に強いType1が145㎞/h、Type2が140㎞/hのために圧倒的にType1に人気が偏っていた。CP77の最高速度も150㎞/hと155㎞/hだった。マニアにとってはこの5㎞の差が妥協できない大きな差であった。憧れのスポーツバイクCB72に乗っていてもType2だと、バイク屋が間違えて仕入れた車両を安く買ったんじゃないか?などと陰口を言われてしまうありさまで、若者の間では憧れのCB72を所有しても、Type2に乗っていると「イモ」と言われる始末であった。外見は寸分の違いもなく区別はつかない。ポイントカバーにType1、Type2と刻印してあるのが唯一の違いだ。しかし、排気音は若干違うのだ。このType1志向は所有者にとって譲ることのできないType1信仰をもたらした。

そんな中、Type2をクランクシャフト、カムシャフト、イグニッションコイル、ポイントなどType1に組み替えた高校生がいた。夏休みに仲間三人で炎天下の路上で、車載工具のようなものだけで、夜は街路灯のわずかな明りの下で組み上げてしまったのだ。それを見て、中学生の俺はまるで手品を見たように驚いた。その高校生は俺より一学年年上だった。彼とは、俺が地元のバイクショップでモトクロスを始めた時に再会した。それから一緒にモトクロスもロードレースも同じチームでレースに参戦した。整備力は相変わらず玄人はだしで、車もバイクも器用に自分で直していた。

話をもどそう。千駄木でCP77のオーナーになった先輩は、俺を後ろに乗せて地元の大泉学園へとバイクを走らせた。俺の住む練馬区では、東京オリンピックのおかげで代々木のオリンピック村から朝霞の射撃競技場や戸田のボート競技場に続く幹線道路(オリンピック道路、現在の笹目通り)が鏡のような舗装道に整備された。今もよく使う道だが、今ではそこらじゅうの道という道が舗装されているので昔見たような感動はないが、当時は路線バスの床がゴリっと擦るほどの道がまだそこらじゅうにあった。

当時は車もバイクもカタログに最高速度が表示されており、バイクを購入すると、自分のバイクにはカタログ通りの性能が備わっているかを確かめてみたいと誰もが思ったものだ。先輩もやはり、先ほど手にしたばかりのCP77の最高速度を確かめたくて、そのピカピカのオリンピック道路を通って帰ることにした。二人ともノーヘルだ。谷原を右折して土支田の交差点から和光へ向かう途中に長い下りがある。そこでアクセルを思いっきり開く。二人とも背中を丸めて前傾姿勢だ。

「出た!出た!おい、スピードメーター見てみろ!」と叫ぶ先輩。今まで感じたことがない強い風圧の中、スピードメーターを後ろから覗き込む俺の顔に風圧でにじみ出た先輩の涙がバシバシ飛んできた。メーターは、なんとカタログのデータを数キロ上回っていた。

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