富士スピードウェイ 魔の30度バンク

自分はまだ若い、と勝手に思っているのは俺だけではないはずだ。だが、親父に連れられて渋谷駅にかかるケーブルカーに乗って眼下に小さく走る電車に興奮したことや、築地の勝鬨橋が開いて隅田川に待機していた大きな船が動き出すのを見たことがあるって人達は俺の周りにいなくなってしまった。そう感じた時、今はメモリアルパークとなった富士スピードウェイの30度バンクの話を書いてみようと思った。

大人になってバイクに乗るようになってからはモトクロスに熱中した。ベトナム戦争が激しいころで、モトクロスチームの半分はアメリカ兵だった。彼らとは地方選の遠征で楽しい思い出がたくさん出来た。しばらくモトクロスに夢中な生活を送っていたが、怪我も多く、お金もたくさん使ったし、会社にも迷惑をかけた。そろそろモトクロス活動も潮時かなと考え始めたころ、クラブ員の一言が俺の人生の方向を変えた。「ロードレースは「レースの華(はな)」と言われているから、ロードレースを経験してからレースの世界から卒業したい」と言うのだ。それを聞いていた俺を含め他のクラブ員たちも「そうだな」「おれもロードレースやってみたい」と言うことになった。関東地方のサーキットは富士スピードウェイだけだったが、筑波サーキットがオープンすることも我々の背中を押したようだ。これが、俺がロードレースを始めるきっかけとなった。1年ほど練習して、富士スピードウェイに挑戦することになる。

富士スピードウェイの旧フルコースは、その30度バンクでの数々の重大事故によって不使用になるのだが、閉鎖されるまで世界GPやF1を開催していた。しかし「この30度バンクはテクニックを競うところではなく、ただの肝試しだ。」とGPライダーやF1ドライバーからら抗議を受けてボイコットされるまでになり、その後しばらくして閉鎖された。アマチュアだけでなく、プロのライダー、ドライバーまでもが恐怖におののくコースだったのである。

この富士スピードウェイのレースにアマチュアライダーとして初めて出場した時のことだ。今も富士スピードウェイは二輪・四輪のレースを開催しているが、1970年代までは今のコースとは比べものにならない1.6kmのとてつもなく長いストレートと、その先にあるすり鉢状の「魔の30度バンク」を持つ恐ろしいコースがあった。今のようにクラッチスタートではなく、当時は押しかけスタートだった。緊張の初レースでスタートしてバンクでは6~7番手を走っていた。バンクに入ったその時、突然意識が遠くなった。自分に何が起こっているのか分からなかったが、気が遠くなっていく。30度バンク外側のガードレールが迫ってきた。一番危険なバンクの最中、徐々に気が遠くなっていく。もうだめだ。ハンドルから手が離れる。転倒する寸前に・・・・・・フッと楽になって意識がもどった。
俺はバンクの恐怖で息をするのを忘れていただけだった。

ずいぶん昔に読んだ司馬遼太郎の歴史小説で、作家の表現力にとても感心したことがある。織田信長が天下統一する前の時代の話である。織田側と同盟を結んでいる徳川家康陣営の城を取り囲み、敵陣を兵量攻めに追い込んだ武田信玄は、突然脳梗塞に見舞われる。その描写はとても脳梗塞の経験のない小説家が描いたものとは思えないほどのものだった。読みながら「この感覚、30度バンクの俺と同じだ・・・・」と心で叫んだ。

このサーキットでは、言葉にはできないほどの強い恐怖心に襲われる。からだをバイクの上に伏せ限界までエンジンを回し、その風圧やバイブレーションに耐えながら長いストレートを走る。その先で飛び込むはずの第一コナー(魔の30度バンク)はストレートの終わり地点ではまったく見えない。右の谷底に向かってバンクの内側がドンと落ち込んでいる。ストレート終わりで見えるのは青い空だけだ。最高速で目標がない空中に飛び出すような錯覚に耐え、アクセルを戻さずにコーナーに突入するには俺の持ち得る全ての勇気をふりしぼるしかなかった。

飛び込んだ30度バンクには新たな恐怖が待っている。縦Gが加わり、前傾姿勢でスクリーンの中に伏せていると、人を背中に載せて腕立て伏せをしているような感覚になる。ヘルメットの顎の部分は、燃料タンクにグイグイと押し付けられる。

すぐ横にはガードレールが迫ってくる。バンクには上から1段目、2 段目、3段目と呼ばれる舗装ラインがあった。1段目を走るのは、まるでロシアンルーレットのようである。ほんのわずかなミスでもガードレールに激突する。危険と隣り合わせだ。接触すれば外側の谷に放り出されてしまう。現に二輪、四輪ともに命を落すほどの重大事故が多発していた。

スピードに乗ってタイムを出すコース取りは2段目で、ここにライダーは集中する。この最善コースの2差段目を上手く取れたとしても、そこには「2弾目のコブ」と呼ばれる膨らみが待っている。俺はCB350の市販車を改造してレースに出場していた。ハンドルストッパーを改造してハンドルの切れ角は狭くなっているのだが、ただでさえ恐怖と闘いながらこのバンクを走っているのに、このコブでフロントがふわっと少し浮いてハンドルがカタカタカタと左右のストッパーに当たる。グワァーンとうなるエンジンからバルブが飛び出して目に当たるような恐怖にも耐えなくてはならない。

CB350を選んだ背景を説明しておく。世界GPも全日本のクラス分けも50cc、125cc、250cc、350ccの4クラスであった。世界GPには500ccがあり、全日本選手権でもエキジビションとしてKawasaiH1R、H2RやSUZUKIタイタン500(後のRGV-γにつながる)などが走っていたが、タイム的にも350ccが早く、人気もメインは250cc,350ccクラスであった。世界的にも250cc,350ccクラスはヤマハの市販レーサーがサーキットを席捲していた時代だ。市販レーサーは俺にとっては高根の花であったが、既にアメリカではカリフォルニア州の環境規制があり、2ストロークエンジンは輸入禁止になっていた。メカニックを目指す俺にはお金以外にも4ストロークエンジンを学びたいという気持ちが強かった。

話を30度バンクの恐怖に戻そう。最高速でコブで浮いてハンドルが当たる他にも、スリックタイヤが市場に出てくる寸前の頃でレースタイヤと表記はあるが時速200㎞を超えるとタイヤバーストの危険性が常にあった。ドライブチェーンもよく切れた。もちろんエンジンの焼きつきの恐怖も忘れてはいけない。

現在のスーパースポーツは、初心者が乗っても200㎞オーバーは出せるかもしれないし、それほどの恐怖心を抱くこともないだろう。しかし、当時の市販車改造車両でレースに出場して圧倒されるのは風の巻き込み音やエンジンの壊れそうな機械音だけではない。サスペンションのストロークは少なく、前後のブレーキはドラム式で狙ったクリッピングポイントでは止まれない。

富士スピードウェイでの初レースは完走し、その後4、5戦走ったが2ストにはとても勝ち目がなく1回入賞したくらいであまり良い思い出はない。その頃の4ストはまだまだ発展途上の域だった。

今のように誰もが安心して乗れるバイクになったのは、バイクをつくる技術がどんどん高まり、安定性、耐久性、操安性などが当時から飛躍的に向上されたからというのは言うまでもない。1974年第2戦のグランドチャンピオンレースで風戸裕選手と鈴木誠一選手が30度バンクの事故で亡くなった。巻き込まれて焼けただれたマーチ73Sから命からがら逃げだせた清水正智選手のメカニックとして俺もこのレースに参加していた。富士スピードウェイの旧コースでは多くの事故が繰り返されたが、このレースが魔の30度バンクを封印する決定的な出来事になった。

今では30度バンクメモリアルパークとして、今の富士スピードウェイのコースの下にひっそりと雑草に埋もれるように残っているようだ。いつか家族で見に行きたいと思う。

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