ツーリングの思い出 珍道中編

俺は今までどのくらいの距離をバイクで走ったのだろう。

昨年のことである。店のツーリングの下見の途中、富士スバルライン入り口の案内板が目に留まった。ずいぶん昔の思い出がよみがえり、本番では走る予定のないスバルラインを妻と走ってみることにした。

バイクに興味を持ち始めた中学生のころ、先輩達が開通したばかりの富士スバルラインを走るツーリングに行くことになったと聞かされた。西武池袋線の大泉学園駅と保谷駅の中間にある踏切横の空き地がツーリングの集合場所だった。当然中学生はついて行けるはずはないのだが、それでも俺は自転車で集合した。「さぁ、これから行くぞ!」というようなツーリング出発の気分だけでも味わいたかったのだと思う。十数台ほどのバイクが富士山に向かってスタートしていく。俺も仲間になった気分でシンガリから自転車で追いかけた。満身の力で自転車をこいで走ったものの、出発から3~5分の大泉学園駅近くで、みんなの姿は見えなくなった。おいていかれた俺は、悔しい思いを噛みしめながら、いつか俺もスポーツバイクを買って富士スバルラインを走ってやるぞと思いながら憧れの眼差しで先輩たちの背中を見送った。

そんな思い出を懐かしみながら、五合目まで登ってみた。駐車場に着いてみると、日本語を話しているのは我々夫婦だけ。土産物屋の店員までもが中国語を話していた。時代は大きく変わってしまっていた。

店を持つ前の頃、仲間とツーリングに行った時は、こんなこともあった。東京から離れれば離れるほどガソリンスタンドの規模は小さくなっていった。俺たちはそんな小さなガソリンスタンドのひとつで給油することにした。そこにはオバチャンが1人しかいなく、裏で畑仕事をしながらスタンドの世話をしているようなところだった。のんびりした田園風景に突然二十数台のバイクが現れたからオハチャンはビックリ仰天だ。レギュラーガソリン、ハイオクガソリン、2サイクル用の混合ガソリンと、三種類まちまちの給油オーダーに振り回されてオバチャンはパニック状態だ。

やっとのことで全員が給油を済ませ、しばらく走った休憩場で誰かが、「さっきのガソリン代誰に払えばいいの?」ときいた。「えっ・・・誰も払ってないってこと?」「100㎞も戻れないよ」それからもどって払ったかは覚えていない。

地元のロードレースクラブで活動していたころの話である。近所の後輩たちは、レースに出ている連中は街中ではどんな運転をするのか…ということに興味津々だった。そんなわけで「今度一緒にツーリングに行きませんか?」などと喫茶店で会うたびに誘われていた。

俺たちは貧乏レーサーの集まりだったので、ツーリングに行けるようなバイクはだれも持っていない。「バイクを用意してくれたら一緒に行ってやるよ」なんて上から目線で答えていたら、10台用意しましたと言うので本当に行く羽目になってしまった。クラブ員で行くのは12人だった。2台足りなかった。後輩たちは必至で2台を集めに走り回ったが、夜の11時になっても最後の1台が見つからない。そこで通勤途中で軽く手を挙げて挨拶する程度の、ほとんど初対面のライダーの家を探すことにした。Kawasaki W1Sがこの辺の路地から出てくるのを見たという情報だけをもとに、彼らはついにその人を探し当ててしまった。理由を話したところ、快くW1Sを貸してくれたのだが、今考えると信じられない寛大さだ。この1台を確保できたのは、ツーリング集合時間の6時間前。つまり夜中の12時だった。行先は出来たばかりの碓氷バイパスだ。

後輩たちはよほど嬉しかったのだろう。家の目覚まし時計を全部しても心配だったようだ、仲間同士で手首にタコ糸を巻いて早く起きた者が凧糸を引っ張り合って朝寝坊しないようにしたそうだ。遠くの仲間との凧糸の長さは100m以上あったが、「いざ鎌倉(この場合、いざ碓氷峠)」の一声に遅れてなるまじと準備周到だったようだ。

やっと借りることのできたW1Sは、Kawasaki W650の初期のモデルだ。英国のBSAを模した車両で、左ブレーキ右ギヤチェンジの国産車とは正反対の操作が必要な難しいバイクだ。赤信号で全員が急ブレーキをかけて止まると、左ブレーキに慣れないW1Sだけは決まって交差点の中程まで飛び出してしまっていた。

目的地の碓氷バイパスは、当時まだ開通したばかりだった。車両は確かに走れるのだが、道路の左右の側溝はまだ工事中であった。まだU字溝が埋め込まれておらず、基礎になる玉砂利だけが敷かれていた。後輩たちも必死でここまではついて来ていた。俺の前を走っていたのは、大きな教習所用バンパーを付けたCB750K1の後輩だった。右コーナーで大きくふくらみ、コースアウトして道路から50㎝程掘り下げられた玉砂利の敷いてある所へ落ちてしまった。彼は何とかCB750を倒さないように、必死で玉砂利と格闘している。その行く手には、すでに埋め込まれていたU字溝が迫ってきていた。U字溝に上がれば、砂利道からコンクリートの平らな面に抜け出せて助かるかと思った瞬間U字溝の幅より大きなバンパーがガツンと大きな音をたててひっかかってしまった。CB750K1は、溝にのめりこむように止まった。後輩は、体操の内村航平選手のごとく、急に止まったCB750K1のハンドルバーを支点に大車輪を一回転してU字溝に叩き落された。後輩のすぐ後ろを走っていた俺は宙を回転してちょうど逆さになった彼としっかり見つめ合ったのだ。その瞬間がとても面白かった。幸い怪我はなく、溝にはまった車両をみんなで引き揚げてツーリングを再開することができた。

仕事を始めた二十歳頃、仲間に誘われて行った上高地ツーリングは今でも楽しい思い出がたくさんある。こんな綺麗な景色が日本にあるのかと上高地の美しさに驚き、その神秘さに魅了され、毎年のように春と紅葉の秋には一泊ツーリングに行っていた。

一泊と言っても週休二日制が当たり前になるかなり前のころである。土曜の夕方に仕事が終わると直接上高地の馴染みの民宿へ直行。民宿には夜遅くなるので夕飯を置いといてくれと頼んでから東京を出発した。上信越道はまだ無く、中央自動車道も一部しか開通していなかった。国道20号線を走って山梨県から長野県に入るのだが、最後に給油しなくてはいけないガソリンスタンドが笛吹川を渡るすぐ手前にあった。ここから先は塩尻峠に入って夜間はガソリンスタンドが無い。

やっとそのガソリンスタンドに着くと、灯りは点いているのに人気がない。ホーンを鳴らしても、「すいませ~ん」と何度叫んでも誰も出てくる様子がない。仕方なく事務所に入っていくと、いつものスタンドの主人が机に伏して泣いていた。どうしたのかと話を聞くと、山梨県出身の大相撲力士、富士桜が負けたとのこと。突貫小僧と呼ばれて人気のあった力士だった。そんなことに大の大人が机につっぷして泣いていたのに呆れてしまった。

店のツーリングで日光へ行った時、新発売されたDUCATIパンタ500を買ってくれたお客さんがいた。まだDUCATI JAPANが出来る前の頃で、正式注文を入れてから納車に数か月待たされている最中のツーリングだった。パンタが間に合わないので仕方なく、今回は下取り予定のKawasaki Z750FXⅢでの参加だった。

日光霧降高原の赤い橋の上での休憩中、大笹牧場の方から個性的なバイクサウンドが聞こえてきた。近々DUCATIオーナーになるであろう彼が叫んだ!

「アッ・・・・・ドカだ!」   「ドカだ、ドカだ、ドカだ!」

「いいか、お前ら!あれがドカサウンドだ。よーく聞いて拝んでおけ!」

徐々に薄いもやの中をドカサウンドがこちらに近づいてくる。ところが、耳をそばだてるクラブ員の間を通り過ぎたのは、期待を裏切るキャブトンマフラーを付けたヤマハSR400だった。

「いい音聞かせてもらいましたぁ」
「やっぱ、ドカサウンドは最高ですねぇ」
「さすが国産サウンドとは一味違いますね~」

・・・・・・・・「うるせぇ・・・」

ソロツーリングからショップでの大勢のお客さんとのツーリングなど、随分とツーリングに出かけた。俺は今までどのくらいの距離をバイクで走ったのだろう。走った道の数だけ、楽しい思い出ができた。また思い出しながら書きとめていきたいと思う。

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