大破した? プリンス グロリア

昨年(平成29年)の交通事故死者数は3,694人で、昭和45年(1970年)に記録された16,765人のほぼ5分の1に減ったと発表された。昭和45年は俺がバイクや車を毎日のように乗っていた頃だから、交通事故者数の深刻な増加が社会問題になっていたことをよく覚えている。

近年、死亡事故が少なくなっているのはシートベルトやエアーバッグなどの安全装置が義務付けられたことも影響しているのだろう。45年前にはこれらの装置は勿論存在していなかった。さらに、今日では信じられないことだが、半世紀前は酒気帯び運転程度はOKだった。交通事故死の急増が社会問題となりはじめた頃から、酒気帯び運転に罰則がつくようになったのだ。

一昔前、こんなニュースを見たことがある。南米ブラジルに新しい高速道路が開通したのだが、開通初日の1日だけの交通事故死亡者が100人を超えたそうだ。高速運転に慣れないドライバーが突然高速道路でスピードを上げすぎたのだろう。日本でもモータリゼーションが始まったばかりの頃は、安全運転についての意識が充分ではかったと思う。70年頃、日本を親善訪問した南太平洋の小さな国の王様だったか首相が「毎年こんなに亡くなる方がいたら我が国は一年で誰もいなくなってしまいます。」と言っていたのが印象に残っている。平成29年の交通事故者数は、いろいろな意味で日本人が安全運転について勉強してきた結果なのだろう。

二十歳頃のことだ。仲間と車で飲みに行き、平気で運転して帰ることもあった。警察の飲酒運転の検問もそこらじゅうでやっていた。警察官から「飲んでますね。外へ出てセンターラインの白線上を歩いてください」と言われる。20㎝くらいの幅だろうか、この白線を外れずに歩けば「気を付けて帰ってください」と帰してくれる程度の検問だ。運転していた友だちはやや緊張しながら白線を歩いているが、同乗者の我々は呑気なものだ。真剣な顔で白線上を歩いている最中に「落ちろっ!落ちろっ!落ちろっ!・・・」と手拍子で大合唱。お巡りさんも笑ってみていた。

バイクの運転もヘルメット着用の義務がなかった頃だ。当時、ほとんどのライダーは「ノーヘル」だ。かぶっている人がいるとすれば、その大半は今で言う「半キャップ」だった。俺もヘルメットをかぶるのは遠くにツーリングに行く時くらいだった。アメリカのバイク雑誌で見つけたブルーのジェット型ヘルメットを苦労して手に入れ、自分で白いストライプを入れて愛用していた。

愛用していたのは、ブルーでシールドがついていたが、こんな感じのBELLのヘルメットだった

ある日、そのヘルメットを被ってバイクで走っていると、警察官が警笛を鳴らしながら手招きで俺を呼んだ。俺が自分を指でさして確認すると、警察官はウンウンとうなずく。警察官のもとへバイクを乗り付けると、「お前、ヘルメットなんてかぶってるからスピード出すつもりだな?」と責められたことがあった。まだその頃は、ヘルメットは安全よりもスピードを出す若者ファッションと思われていのだ。

ヘルメット着用義務が法制化されたのは1970年代の中頃だったと思う。沢山の犠牲の中で出来た罰則ありのヘルメット着用義務制度であった。法制化された当時は「自己責任だろう」なんて不貞腐れたのだが、今はヘルメットを被らなくてはバイクの運転は怖くてできないと感じている。

酒気帯運転が禁止されるようになる少し前、身近でちょっと笑える事故があった。俺は友だちと酔っぱらった先輩にプリンス(日産に吸収される前のプリンス)のグロリアで自宅に送ってもらった。俺を降ろして、先輩はバックシートで酔っぱらって寝転んでいる友達を送るころになっていた。対向車が来たら少しスピードを緩めなくてはいけない位の細い道の緩い左カーブで事故は起きた。キーッ!!!というタイヤのスリップ音と同時にガーンと強烈なショックが、後ろで寝ていた友達をたたき起こした。

乗っていたのは、横目の白だった

グロリアはカーブでタイヤを滑らせ、右センターピラー(前ドアーと後ろドアーの間)を電柱にヒットさせてしまった。だがそこで止まらず、その後も歩くようなスピードで反対側のガードレールに向かってトロトロと動いている。驚いたのは後ろで寝ていた友達だ。一気に酔いは覚め、飛び起きて運転手の名前を叫んだ。だが、すぐにいるはずの運転手がいないことに気づかされる。右窓から外を見ると、そこには運転していたはずの人間が衝撃のために開いてしまったドアからはじき出され、路肩に座っていた。田舎の夜道で幽霊にはちあわせした老婆が腰を抜かして座り込んだように。

車内から「**さーん」「**さーん」と運転手を叫ぶ友達。その声に運転手の先輩も我に返って「**雄」「**雄」と、お互いにトロトロ動くグロリアのドア越しに、叫びあった。

先輩も友達も、強い衝撃の割に怪我がなかったのは幸いだった。先輩が右手で事故車での後部ドアーが開くのを押さえながらではあるが、無事友達は自宅まで送ってもらった。酔いも興奮も冷め、壊れたドアを片手で押えながら帰っていく先輩とグロリアを見送った。既にプリンスは日産の傘下に入っており、当時でさえ古臭いオンボロなプリンス・グロリアは、翌日あっけなく解体処分された。

今では笑えるグロリアの事故だったが、ひとつ間違えば重大事故にもなっていただろう。若造だった頃の俺だって、飲酒運転で重大事故を起こす可能性は充分あったと思う。今日の飲酒運転に関する取り締まりが、40年経った今、死亡事故を大きく減らしているのは確かだ。

 

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