モリワキでメカニックだった頃の友人であり、レーシングドライバーの新井鐘哲(あらい しょうてつ)君と40年ほどぶりに再会した。バイクショップの会合で出会った女性経営者が、新井君と高校の同級生だという。彼が自動車好きと言う事は知っていたが、有名な伝説のF1ドライバーだということは知らなかったそうだ。是非とも彼に会いたいと言ったら、快くみんなで夕食でもと誘ってくれた。
モリワキエンジニアリングのメカニックとしての初仕事は、富士スピードウェイのグランチャン(Cカーのレース)に出るマーチ73S・BMWのエンジンメンテナンスだった。森脇社長のアシスタントである。モリワキエンジニアリングという社名も決まっていなかった頃で、森脇社長はまだレーシングショップの立ち上げに向けて準備を進めていた。「最終的にグラチャンやF2で使用しているBMWエンジンなどの最先端の仕事が出来るようになると良いなぁ」なんて夢を語っていた矢先、いきなりグラチャンBMW2000のエンジンメンテナンスの仕事が飛び込んできたのだ。
鈴鹿サーキット近くでレーシングカーの制作をしていた会社が、グラチャンマシンのメンテナンスの仕事を請け、エンジン関係をモリワキで協力してほしいという願ってもない依頼だった。森脇氏の出身地である神戸に行くことになるのだろうと考えていたのだが、この仕事が舞い込んだおかげで、モリワキも俺も鈴鹿に落ち着くことなった。俺は、小さな工具箱と布団だけを友だちに運んでもらい、富士スピードウェイのピットで森脇社長と待ち合わせた。BMWはそれまでいじったことがない電子制御やインジェクションなど当時新しい技術が使われていて、2輪レースとは全く勝手が違う。ゼロからの4輪メカニックのスタートであった。
富士のグラチャンレースが終わり、夜中にマーチ73Sを載せたトラックの助手席に乗って、フレーム制作会社のメカニックの運転で鈴鹿市に入った。自分のアパートが決まるまでは、我々を呼んでくれたその会社の寮に泊めてもらう約束だった。そこには俺と同じような新米メカニックや、ショップお抱えのレーサーなどが寝泊まりしていた。夜中の到着で早々挨拶を終えたところ、いきなりゆで卵を食べるかと聞かれる。風呂を沸かしていたらお湯が沸騰してしまったので、もったいないからゆで卵を沢山作ったとのことである。夜も電気はつけっぱなしの、無法地帯だ。そんな寮で初めて会ったドライバーが、新進気鋭の新井鐘哲選手であった。地方選手権では圧倒的な早さだったが全国的にはまだ知られていなかった頃である。
当時人気があったのはFJ1300レースだ。レース用のエンジン機構はOHCからDOHCへと進化する中、なぜか古いOHV機構の日産サニーエンジンが連戦連勝であった。トヨタはスターレットのDOHCエンジンで対抗、ホンダは1300クーペに搭載しているハイパワーエンジンを投入し、次にシビックで対抗するが、東名チューンのOHVエンジンには負け続けていた。このサニーエンジンの連勝にストップをかけたのが、ホンダ シビックエンジンだ。この時、無限モリワキエンジンとマルチ製のシャシーで初めて日産の連勝を止めたドライバーが新井鐘哲である。そのレースを鈴鹿サーキットで観戦していた本田総一郎氏がとても喜び、色紙に「勝ち栗」の絵を描いて新井鐘哲選手に贈った。新井選手は今でもこの色紙を家宝として自宅に飾っている。
駆け出しレーシングメカニックの俺がBMWエンジンと格闘しているさなか、俺の知らないところでF1チーム結成の動きが進められていた。F1プロジェクトのリーダーはすでに、若手ドライバーの新井鐘哲選手をF1に乗せようと考えていた。まだ全国的には知られていなかった新井選手の抜擢をスポンサーに納得させるには、まず、日本で人気のグラチャンレースで良い成績を残すことが重要である。まもなくやってきた新井選手のグラチャン初挑戦に、俺は同行することになった。
予選日前日、6tトラックにレース車両のマーチ73Sを積んだ。富士スピードウェイまでトラックを運転したのは新井鐘哲選手、俺は助手席である。鈴鹿から富士スピードウェイのある御殿場へ向かう途中、静岡県のトンネルを出たとたんに強い雨が降っていた。急な雨でトラックがスピンして驚くが、新井選手は気にするどころか面白がって「乗用車と違ってトラックは少し遅れてカウンターをあてるとスピンせずに立ち上がる」と言いながら雨の東名高速を左へ右へとカウンター走行を続けていた。助手席の俺は怖いとも言えず、両足で床を踏ん張ったままあっけにとられていた。肝心のグラチャンレースでは結果を残せず、エンジントラブルで序盤のリタイヤに終わった。
それからすぐに新井選手はF1参加の為にイギリスへ渡った。ホンダのF1撤退以来、初めての日本チームだったので随分4輪雑誌では騒がれた。チームリーダーの意向なのか、話題性の為なのか、または全国区活躍前だったせいか、新井鐘哲は本名を名乗らず、F1レーサー速水翔(はやみ しょう)という覆面ライダーとして売り出されていた。
マキF1としてデビューしたチームは、資金不足と経験不足で決勝進出を果たすことができないまま2年半の短い活動を終えた。スポンサー企業の良からぬ噂が雑誌に載るなど、当時の俺には良いイメージはなかったのだが、今回の新井選手との再会で自分の思い違いがあったことが分かった。確かにチームは食事に事欠く貧乏所帯だったようだが、一番年上のリーダーは26歳、メカニック、営業や企画担当者、そしてレーサーは皆20歳前半という若いチームだったのだ。今考えると、20歳前半の若者たちでF1出場の夢を語り、横浜にF1プロジェクト基地を構え、イギリスにF1最前線基地を置いて、4台のF1カーを制作し、予選落ちにしろヨーロッパを転戦したことは驚くべき行動力である。時代が違うので比べることは出来ないが、平成の現在に同じことを行う若者たちのチームが出現したら、俺は拍手を送るだろう。
新井選手もお金に苦労はさせられたそうだ。しかし再会した彼は、かけがいの無い経験をさせてもらったF1チャレンジに感謝していると言っていた。この新井選手の言葉に、はっとさせられた。知らないところで結成されたF1チームには、知らないドラマがあったのだ。マキF1は、その後すぐ解散となったが、このチームから何人もが現在もモータースポーツ界で活躍している。