愉快な鈴鹿の仲間たち

俺の鈴鹿でのレーシングメカニック修業時代に出会った愉快な仲間達のことを思い出しながら書いてみようと思う。

俺がこの世界に入ったころからレーシングメカニックに限らず、世の中の徒弟制度の在り方は変わりつつあった。それまで弟子には決まった給料は無く、衣食住を親方に面倒を見てもらっていた。それが我々の時代になって給料をもらえるようになり、昼飯と晩飯は職場で出してもらうのだが、住まいも自分で選び朝飯は自分で食べる生活に変わっていた。

勤め先のモリワキエンジニアリングから7~80メートル位手前のお菓子屋に寄ってパンと牛乳で腹ごしらえしてから出社するのが一日の始まりだった。朝のパン屋は新米メカニックたちの溜り場だった。このパン屋の前の交差点を、車で通勤する他の仲間達が自慢のマシンで派手なパフォーマンスをしながらぶっ飛ばして行く。SUZUKIフロンテクーペSSSの三本チャンバーむき出しのレース仕様車で、鈴鹿市道伯町の交差点を自慢げにドリフトしながら駆け抜けていく奴もいた。上手く四輪ドリフトで決めた時には、パン屋のオーディエンスは「おぉーっ!!」と牛乳瓶を握った右手を高く振り挙げた。どや顔のドライバーはバックミラーで観客の興奮を確認するとガッツポーズで声援に答えた。そんな仲間達が次々と道伯町の交差点をドリフトさせて出社するのが鈴鹿の朝の儀式だった。

Suzuki フロンテクーペSSS

エンジンチューニング屋はモリワキエンジニアリングだけであったが、四輪レースのフレームビルダーは鈴鹿サーキットの近くに何軒か固まってあった。それらの工場へはエンジン調整で出向いたり、特殊な工具や溶接器具などの貸し借りに毎日のように行き来していた。ある四輪フレームビルダーにいた若いメカニックとは仲が良かった。エンジンについて話していたら、彼が組み上げようとしているシリンダーヘッドに大きな傷があるのに気がついた。

俺「この傷どうしたの?バルブが当たったの?」
メカ「いや」
俺「コンロッドが飛んだ?」「ピストンが割れたとか?」
メカ「いや」
俺「じゃーどうしてこんな所に大きな傷があるの?」
メカ「バルブガイド抜こうとして、大ハンマーで叩いたら手が滑って燃焼室に命中。傷はその時のものさ。」

すさまじい衝撃からの傷と思われるが、彼は大したことでもないような口ぶりだった。

この若いメカニックには、もう一つ笑えるエピソードがある。彼は、二気筒までのエンジンはいじれるのだが、四気筒のエンジンになると俺に来てくれと電話が入った。田んぼのあぜ道を近道して工場につくと、彼はHONDAシビックのレース車両のエンジンルームを覗き込んでいた。
このシビックのオーナーは、関西で江戸時代から続く老舗和菓子店の息子だった。レーシングドライバーと言うより、相撲取りのような体格をしている。俺はシビックの電装関連のチェックをして、若いメカニックにバトンを渡した。彼は、シビックのフロント右タイヤに足をかけ、エンジンをのぞきながらオーナーに向かって叫んだ。「**さんエンジンキーを回してください!」シビックのオーナーが運転席に座ったとたん、シビックの車体は強化スプリングをものともせず「ガクンっ」と沈み込んだ。右タイヤに足を載せていた彼はタイヤとタイヤハウスに足の甲を挟まれて悶絶。痛さをこらえながらピョコピョコとのたうち回っている。絞り出す声で「**さんて100キロ位あると違います・・・?」彼がきくと、シビックオーナーの答えが笑えた。「100キロなんかで止まってくれたら俺とっくにフォーミュラ乗ってるもんねぇ~っ!」

Honda Civic

遠く五島列島からレーシングドライバーを夢見て鈴鹿に来た若者がいた。彼の夢の通りには中々物事は進まず、商業用看板を製作する工房に勤めながら、仕事以外の時間を鈴鹿のレーシングカー製作会社で過ごしていた。看板の仕事が終ると、手伝いをする代わりにアルミや鉄製の材料をレーシングカー製作会社で分けてもらい、ついには六畳一間のアパートの自室でフォーミュラーカー(FL500)を作り上げてしまった。彼の努力は実を結び、あるプロのレーシングドライバーが買って出て鈴鹿サーキットでシェイクダウンすることができた。折角苦労して作ったフォーミュラカーだったが、製作者本人がハンドルを握って試運転のさなか、残念ながら廃車になるようなクラッシュをしてレース出場は叶わなかった。経験のない人が、レーシングカーを運転するのは大変難しい。一般の乗用車はハンドルに遊びがあるのだが、レーシングカーは1対1のダイレクトで遊びは全く無い。 全開走行でストレートを真っすぐ走るだけでも、経験のない人にはとても難しいことなのだ。

FL500

この時代、二輪レースは2サイクル全盛で4サイクルでは出場する車両はまだほとんどなかった。この頃、国内唯一の4サイクルチューニングショップだったヨシムラも、アメリカに活動の場を移していた。ホンダもファクトリー体制でのレース出場はなく、契約ライダーの隅谷守男選手だけが4サイクルレーサーのテストを行っていた。(この頃、ホンダはまだ2サイクルレーサーを作っていなかった)そのような中、ヨーロッパやアメリカでは、1000ccクラスの耐久レースに人気があった。このクラスであれば4サイクルで勝てるマシンがある!と、それまで眠っていたホンダが、鈴鹿サーキットでテストを始めたのである。

サーキットでテスト走行を見ていたお客さんが、息を切らしてモリワキの工場に飛び込んできた。

客「大変です、大変です!今、サーキットでホンダの隅谷選手のCB500Fourが遂に集合マフラーを付けてテストしています!」
森脇社長「どんな音だった?」
客「田舎のおばーちゃんが飼っている秋田犬の鳴き声そっくりです。」
森脇社長「鳴いてみろ。」
客「ウォン ウォン」「ウォン ウォン」
森脇社長「ウゥゥゥゥ・・・・・・音が低いなぁ・・・ボアアップしとるなぁ。650cc位になっとるなぁ!」

秋田犬

後でわかったことだが、なんとその時ホンダは世界耐久選手権に備え、CB750FourではなくCB500Fourを650ccにボアアップしてテストを行っていたのだから笑ってしまう。そのころまでは集合マフラーはヨシムラの独壇場だったが、ついにホンダが四気筒車両に集合マフラーを取り入れたのだ。しばらくして、一般車両として販売されたCB400Fourにも、この集合マフラーが引き継がれて行くのだ。

CB650と隅谷守男

CB400Four

鈴鹿には、全国からレーサーを目指してチャンスを夢見ている若者がたくさん働いていた。そんな中、ホンダのテストドライバーが集まる会社があった。本田技研の子会社で、自動車の配送を主に行っている会社の一部門だ。

テストドライバーと言っても、小説やドラマで見るような命を懸けたテストをやっているわけではない。郵便配達のカブのサイドスタンドスプリングの耐久試験のような地味な仕事である。深夜の鈴鹿サーキットで黙々と30メートル走るとサイドスタンドを出して、すぐに次の30メートルを走る。

「ブーン、ガッチャン。ブーン、ガッチャン。ブーン、ガッチャン。・・・」

延々と朝まで、寒い冬も、蚊や虫に食われながらの夏も、テストドライバーは黙々と単純作業を続ける。その時は思わなかったが、このような作業もロボットを使わずに多くの人間が行っていた時代の日本企業の真面目さに改めて感心する。今もこのようなことは行われているのだろうか。

そんな単純なテストをやってるテストドライバーたちだが、彼らが夜の繁華街で飲み歩くときには「俺のような危険な仕事についているものは家庭が持てない」、なんて女の子にはうそぶいていた。テストドライバー達にはが従業員寮があって、そこには何度か遊びに行ったことがある。入り口を入ったところが食堂で、テレビが置いてあり皆でくつろいでいる。ほぼ全員がアマチュアの二輪か四輪レース活動をしている。食堂から伸びる廊下の左右にはいくつか部屋が並んでいるのだが、その廊下はレース前日のレーサーの押しかけスタートの練習場と化す。爆音が響き渡る廊下には、多くのタイヤ跡が刻まれていた。(この時代のレースでは、セルモーターは反則だった。また消音機も取付られていないことも書いておく)

このレーシングドライバーの中に、よく仕事場に来るやつがいた。彼の部屋をのぞこうとしたら、どこからともなく「入ったら危ない」と大きな声がした。その部屋は作業靴で入らないと危ないと言われ、暗い部屋の電気を点けたところ、一升瓶やビール瓶が割れたまま幾つも置かれていた。知らないで入ったらもちろんケガをしていたはずだ。なんと押入れで寝ているという。

こいつはHONDA-Z(360ccの軽自動車)を500ccにボアアップしたアマチュアレースに出場していた。フレッシュマンレースは、鈴鹿サーキットの西コースで開催されていた。自分の部屋の掃除ができないのだから、レース当日だというのに車両の整備は当然されていない。レース前の車検でも、バッテリーが上がっている、空気圧がペッちゃんこ・・・など、基本的な整備さえできていない。工場に毎日のように顔を出すよしみで、俺も森脇社長も手伝う羽目になった。HONDA-Zのレース仕様車の外装は、ヘッドライトを取り外した右目をアルミパネルで塞ぎ、左目を開けたままにしてエアーダクトにしている。ここがCRキャブレターの吸い込み口だ。

走行時間になったのに、エンジンがかからない。森脇社長自ら「どいてみぃ」とセルスイッチを回す。掛かりそうで中々かからない。オーナーがボンネットを開けてみると、なんとCRキャブレターのファンネルにゴミ除けとして被せてあった軍手が吸引マニホールドの中に引っ張りこまれそうになっているではないか。慌てて吸い込まれる寸前の軍手を引き抜くと、それまで掛からなかったエンジンがいきなりレッドゾーンへグォーンと吹き上がった。エアダクトの中からは、放置されていた間に巣を作っていた足長蜂がレッドゾーンに入った爆音に驚いて大量に飛び出してきた。メカも、ドライバーも、さらには近くにいた観客も、狂ったように飛びまわる足長蜂に刺されないよう逃げまわる。オーナーといえば、慌てて軍手を引き抜くために飛びついた勢いでボンネットが上から落ちて挟まれていた。蜂がいない向かい側席で見ていた観客たちは皆、転げまわって笑っていた。

Honda Z

同じ寮でFL500(500ccエンジンの小型フォーミュラカー)クラスに出場していた男がいた。強面な彼のバイクはもちろん「男カワサキ」。フォーミュラに移っても車体色はグリーンだ。あるレースでスタート前の完熟走行が終わると1台だけ帰ってこない。マーシャルカーが捜索に出動しても、コース上には車両は見当たらなかった。競技役員が絶対一台戻っていないと言うのでレースを中断してしばらく探すと、ヘヤピンカーブの先の250R、200Rと続く通称「マッチャンコーナー」で飛び出して逆さにひっくり返っている緑の車両を見つけた。燃料タンクからガソリンがポタポタと流れ出る中、カワサキグリーンのドライバーは無情にも何度もマシャルカーのタイヤの音だけが通り過ぎて行くのを聞いていた。「これで火が出たら俺の一生は終わるのか…」と震える中、やっと探し出してもらえた。コース横の雑草の中に完全に迷彩化していたグリーンの車体色が災いしたようである。

こんな奴らの住む無法地帯の寮にも、一年に一度だけ親会社から担当者が様子を見に来る儀式のようなものがあった。そこに来る担当課長は自虐の自己紹介で「本田宗一郎とミカン箱でエンジンを組みながら一緒に仕事をした仲間の中で、課長止まりは俺くらいだ」と皆を笑わして場を和ませていた。

本社から「お偉いさん」が来るということで、普段は素っ裸で食堂のテレビを見ている奴らも普段着に着替えて緊張している。「問題はないですか」「なにか困ったことはないですか」くらいの話をして帰るのが常なのだが、その日のテレビは歌謡番組を映していた。ちょうど人気の出ていた山口百恵、桜田淳子、森昌子の三人娘が歌っていた。皆言葉も発せず黙ってテレビを見ていた。シーンと張りつめた空気の流れる食堂で、本社の課長が画面の山口百恵をみながらポツンと一言発した。

「やりたい・・・・・」

静まり返った食堂で、一瞬皆が顔を見合わせた。次の瞬間、緊張の糸は切れた。今までの遠慮がブチ切れて、課長の脇を「このぉーっ!」と笑いながら周りの奴らが肘でつつき始めた。この一言で、この課長は「本社のおえらさん」から、俺たちと同じ「スケベ野郎」仲間としてモミクチャにされ歓迎されることになった。

こんな愉快な仲間は、まだまだたくさんいた。若い漫画家たちが集まった「トキワ荘」のように、この寮にはレーサーを夢見て鈴鹿にやってきたたくさんの若者たちがいた。あれから時は流れ、彼らは今はどこでどうして暮しているのだろう。

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