HONDA CB350と、むつ湾サーキットの思い出

一人娘も就職が決まれば、なかなか家族旅行にも来れなくなるだろう。一緒に行けるうち、ちょっと頑張らないと行けない旅行をしようと思っていた。昨年の夏休みは、青森県の大間まで、その前の年は島根県の出雲大社だった。目的地だけを決めて、ルートも宿もその日に決める行き当たりばったりのノンビリ旅行だ。仮に泊るところが確保でずに、車中泊になっても文句を言わない約束で出発する。 お盆の時期に予約も取らずに旅行をするのは無謀に聞こえるかもしれないが、意外となんとかなるものである。

昨年の旅行では、常磐道を走って東北の震災地を通り青森県に入った。毎年正月になると世間を賑わす「大間のマグロ」を食べるのがその日のゴールだった。さらに俺には、「むつ湾サーキット」(正式にはむつ湾インターナショナル・スピードウェイ)が今どうなっているのか見てみたいという気持ちもあった。遠い昔、初めて青森県で開催されたオートバイ・ロードレースに出場したコースだったからだ。

むつ湾サーキットは、1972年の7月にオープンしたばかりのサーキットだった。俺は、仲間のクラブ員(ワールド・ブラザース)と共に、そのサーキットの杮(こけら)落しとなったレースにチームで出場した。主催者の計らいにより、青森市内のホテルで前夜祭が開催された。主催者は、挨拶の中で青森県の農業、牧畜などの歴史を語った。そしてサーキット建設には、青森県の若者が県内に残っても夢を持ち続けることが出来る産業を興したいという情熱が手向けられていると話した。青森弁で熱弁する主催者に、会場に集まったレース関係者は盛大な拍手をおくった。

貧乏レーサーだった俺が、どうして青森のむつ湾サーキットまで行けたのかが全く思い出せない。今も昔も、レースにお金がかかることは変わらない。多分、今以上に、ロードレースに出場できるのは裕福な家庭を持つレーサーにほぼ限られていた。自分で稼いで出場するには、当時稼げたガテン系業種(持ち込みのトラック運送業や、危険手当のつくような仕事など)に限られていた。チョット見栄えが良ければ、今で言うホスト業などで稼いでレースにつぎ込んでいたものだ。

俺は薄給のメカニックだ。16歳18歳で取得した免許証も、小金井の自動車試験場で更新手数料の600円ほどの印紙代が払えず免許証を失効したことさえある貧乏さである。稼ぎは全てバイクにつぎ込んでいた。他のクラブ員も同様、稼ぎは違っても全てをバイクに貢いでいた。サーキットで転倒して意識が無くなり、救急車を待たずにトラックの荷台に寝かせて緊急病院に運び込んだことがある。待合室で待機している我々に、医者は、打撲だけなので安静にしていれば直るが、ひどい栄養失調の方を何とかしろと言ったほどだ。「戦後は終わった」と言われていた70年代にもかかわらず、俺たちはバイクのせいで栄養失調だったから笑ってしまう。

クラブ員の一人には、こんなエピソードもある。行きつけのバイクショップに部品代を「ツケ」にしてもらい、給料日にあるだけのお金を払う約束だった。手書きの明細を見ると・・・・

8月ご請求
*ピストン:     ****円
*ピストンリング:  ****円
*ガスケット:    ****円
*エンジンオイル:  ****円
今月分合計:     ****円
その下に弁当代200円×26日合計5,200円

部品代以外に弁当代が請求されている。実は、こいつは全財産をレースにつぎ込んでしまい、朝昼、食事抜きのまま仕事上がりに取り置きしてくれたバイク屋に立ち寄って弁当を食っていた。弁当飲み物までがバイク屋にツケ払いだったのだ。

そんな貧乏生活をしていて、何でむつ湾までレースをしに行くことが出来たのか?また、誰が誘ってくれたのか?どうしても思い出せない。

俺はレース出発日が近づいても残業続きだったので、CB350のエンジンを触れないでいた。壊れたままのエンジンを前にして気が焦るばかりである。もちろん若造の俺は、レースのために会社を休ませてもらったり、準備のために早く上がります…など、言いえる立場では到底ない。そんな俺に、4トン半トラックにクラブ員のワンボックスを積み込んで、その中で道中俺がエンジンを組み上げながら行こうとクラブ仲間が提案してくれた。東北自動車道など無い頃である。東京から青森は20時間はかかるはず。初めて訪れる東北地方の景色も楽しみだったが、目の前のエンジンしか見る事ができなかった。

しかし、道中で唯一の記憶に残る事がある。仙台に入ったころ、皆お腹がすいて食事を取ろうという事になった。しかし、食堂がなかなか見つからない。当時、コンビニやファミリーレストランなどは無く、車の中は「腹減った・・・腹減った・・・腹減った・・・」の大合唱。しばらくすると、右前方にレストランらしき建物。「やっとあった~」と喜び勇んでトラックで入っていくと、そこはなんと仙台空港だった。空港と言えば羽田空港しか知らなかった俺たちは、その小さな建物がとても空港には見えなかったのだ。その後、しばらく空腹は続いた。

むつ湾サーキットに着いて、車中で組み上げたエンジンを始動させるが、原因不明のオイル漏れに悩ませられる。何度も何度も注意して組み込んでもオイル漏れが止まらない。練習走行、公式練習が始まっても、バイクをコースに出すことができない。一ヶ月前の富士スピードウェイで焼き付いたCB350のエンジンを直すのに、新品部品と中古部品を混ぜて準備していた。カムシャフトを左右からホールドするカムシャフトホルダーという部品がある。これはCD250のものと同じに見える部品のため、ビジネスバイクCD250の中古部品を流用した。しかし、CD250のものには、ホルダーからオイル漏れを起こさせないようにゴム製のO-リングが入っているのだが、CB350には入っていない。このOリングを外してオイル漏れが解消し、エンジンを車体に乗せて始動。直った!公式練習も終わり、予選がすでに始まっていた。

時間がない。焦る。手は震えて。ボルトやナットを砂に落とす。そうしている間にも、常に変わるラップタイム情報がスピーカーからけたたましく流れる。「後5分で走行終了です」「次のクラスのライダーは、入口に集合してください!」などのアナウンスが、頭上のスピーカーからうるさく聞こえてくる。「俺は何しにここまで来たんだ。整備しに来た訳じゃないんだぞ」と、自分に苛立ちながらも必死でサーキットインする準備をする。やっとのことで皮ツナギに着替え、練習走行もしていないコースに入ったのは、なんと予選終了10分前だった。

無事に予選を通過した。次の日の決勝は雨。非力な4ストロークマシンにとっては、全開で走るオーバルコースでは、雨は味方となるはず。しかも、出場者全員が初めてのコースである。俺にとって、雨は願ってない幸運であった。予感は当たり、決勝では2位で入賞することができた。

このレースの前夜祭で仲良くなったアマチュアライダーたちの中には、後に4メーカーと契約したライダーが5名もいた。かなり無理を押して出場したレースだったが、今ではその多少の無茶が良い思い出となったようだ。

地元期待のむつ湾サーキットも、翌年に起こったオイルショックが引き金となり、サーキット自体があまりにも海に近いために(ストレートの横から20~30mで海)海岸からの砂と海水で浸食され、コースが埋もれてしまったようだ。ストレートでは普通、シールドに隠れるように体を伏せて乗るものだが、海から吹く横風が強いのでハングオンして走ったのを覚えている。また、北限のサーキットとして営業できる期間が 夏の5月から8月までの短い期間だったため、たった2年で閉鎖されてしまった。

家族旅行の途中、むつ湾サーキット跡を探したが、あまりに昔すぎる記憶と、北の厳しい海沿いの原野の中で、ここがサーキット跡だと確信が持てる場所はとうとう見つけられなかった。

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